なぜ弁護士は凶悪犯を弁護するのか?
凄惨な事件が起きる度に湧き上がる意見
SNSで誰でも生の声を発信できる現代では,重大ニュースとなるような凄惨な事件が起こる度,被害者への追悼の念だけでなく,犯人に対する憎悪の念がインターネット上に湧き上がります。
後者については,犯人への誹謗中傷だけでなく,その刑事弁護を担当する刑事弁護人や,ひいては弁護士一般に対して「どうして弁護士は凶悪犯を弁護するのか?」という疑問がぶつけられることがよくあります。
「人権を守るため」とか「それが仕事だから」と答えることは容易いし,それはそれで正解なのですが,このコラムではもう少し踏み込んで,弁護士が凶悪犯を弁護する理由を考えてみたいと思います。
「犯罪者に人権はない」の危うさ
凄惨な事件があったときに,一部でよく使われるフレーズとして「犯罪者に人権はない」というものがあります。
人権というのは,人であることによって認められる普遍的権利のことをいうので,このフレーズを文字通り「人権はない」と理解していたら相当やばいのですが,犯罪者であれば相当程度の人権を制約しても良いという意味合いで使われることがほとんどだと思います。
そしてその理屈自体は一理あって,例えば犯罪者が刑務所内で自由を制限されることは人権に対する重大な制約ですが,許容されています。まさに,犯罪者であることによって人権が制約されているわけです。
ただし,「犯罪者」というのは,単に罪を犯した者ということではなく,適正な手続によって犯罪者と認定された者のことをいいます。適正な手続というのは,公正な裁判のことであり,犯罪者と認定されたというのは,有罪判決を受けたということです。
このことを憲法は次のように規定しています。
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
憲法31条
憲法31条は適正手続の保障と呼ばれる条項ですが,要するに,法律の定める手続(≒裁判)を経ずに死刑や自由刑や罰金刑に処せられない権利を定めているわけです。
さらに,憲法学説上,憲法31条は,手続だけでなく実体規定も適正なものでなければならないと理解されています。実体規定というのは分かりやすくいうと刑法の規定と考えてもらえばいいのですが,例えば,「裁判官を馬鹿と言った者は死刑に処する。」という法律が定められた場合,いかに手続自体が適正な者であっても,この実体規定が憲法31条に違反しており無効であるから無罪とされます。実体規定の適正さは,刑罰という人権侵害行為を正当化するだけの必要性と許容性が認められるか,その行為の害悪と刑罰の均衡が取れているか等から判断されます。
さらにさらに,憲法は,無罪推定原則や罪刑法定主義などを保障しているものと考えられています。無罪推定原則というのは,適正な裁判により有罪と認定されるまで被告人や被疑者は無罪の推定を受けるという原則です。罪刑法定主義というのは,行為後に制定された法律で犯罪とされることがあってはならないという原則のことであり,いずれも,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」の人権を保障する内容です。
他にも,憲法は,令状無くして逮捕されない権利(憲法33条),弁護人依頼権(憲法34条,37条3項),令状無くして捜索差押されない権利(憲法35条),公務員による拷問と残虐な刑罰の禁止(憲法36条),適正な公開裁判を受ける権利(憲法37条1項),証人審問権(憲法37条2項),黙秘権(憲法38条1項),二重処罰の禁止(憲法39条),無罪補償(憲法40条)など,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」に対して多くの人権を保障しています。
憲法の人権条項は,一般条項的なものを含めて30条(第11条〜第40条)しかないので,その3分の1が「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」に対する人権保障に割かれていることになり,憲法がいかにこれを手厚く保障しようとしているかが分かります。
逆に言えば,憲法は,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」に対する人権侵害に強く怯えているわけです。
どうしてなのでしょうか?
どうして憲法は,被害者ではなく,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」の人権をこれほど保障しようとしているのでしょうか?
正義を愛し,悪を憎む気持ちがある普通の人ほど,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」なんて,酷い目に合えばいいじゃないか,人権制限されたっていいじゃないか,犯罪者に手厚い人権を認める必要なんてないじゃないか,そう感じると思います。
憲法は,その素朴な感情を否定しているわけではなく,むしろ,人間にはそのような素朴な感情があるからこそ,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」の人権を手厚く保障しているのです。つまり,普通の人は,正義を愛し悪を憎むからこそ,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」の人権を容易くかつ強烈に制限してしまいやすい,人権制限という域を超えて拷問や残虐な刑罰を与えてしまいやすい,適正な手続なんて要らないと思ってしまいやすいと考えているわけです。
それは,ただの机上の空論ではなく,魔女狩りなどをあげるまでもなく,歴史上,刑罰の行使という名目で行われてきた残虐行為や無辜の処罰に対する超実践的な反省です。歴史上,刑罰権の行使の名の下に,極悪人だけでなく多くの一般人の血が流されてきました。刑罰に対する人権保障は,あんな暗黒時代には二度と戻らないぞという人類の知の意思表示といえるでしょう。
だから,「犯人に人権はない」というフレーズは,極めて素直で素朴な感覚であるものの,暗黒時代に戻る方向という意味で極めて危険なのです。「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」の人権を蔑ろにすることは,どうしても一般人の人権を蔑ろにしてしまう危険を孕んでいるからです。
「自分は犯罪なんて犯さない」と思う人もいるかもしれません。
しかし,それは錯覚です。
誰でも自動車事故を起こしてしまうかもしれない,自転車事故を起こしてしまうかもしれない,刑罰が科される行為と知らずにある動物を捕獲してしまうかもしれない,たまたま持っていたカッターが銃刀法違反かもしれない,お礼と思っていたら賄賂と言われてしまうかもしれない,酔っていて暴力的になってしまうかもしれない,暴言を吐いてしまうかもしれない,浮気相手を殴ってしまうかもしれない,痴漢と間違われて逃げるときに誰かにぶつかってしまうかもしれない,自販機から出てきた10円多いお釣りを持ち帰ってしまうかもしれない。
人は誰であっても,罪を犯してしまう可能性があります。少なくとも,罪を犯したと疑われる可能性があります。
だから,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」の人権を守るというのは,一般人の人権を守ることに繋がっているのです。
犯罪者の人権を守るために必須の防具,弁護人(=弁護士)。
このように,憲法は,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」への人権侵害に対して強く怯えているので,その人権侵害はダメだよというだけでなく,あれはダメだこれはダメだと上記のように細かく規定しています。
その中で,憲法が「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」に与えた防具が,弁護人です(憲法34条,37条3項)。
憲法は,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」の人権を保障するために,弁護人(=弁護士)の存在を前提としているわけです。だから,弁護人にとっては,目の前の「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」のために一生懸命に弁護活動をすることが憲法上要請されているともいえます。
ではどうして,憲法は「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」に対して弁護人という防具を与えたのでしょうか?
それは,「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」と刑罰権を行使する国家権力との間には絶大な力の差があるからです。その構造的な力の差の前では,いかに適正な手続的制度を作ろうとも,その手続が守られているのかということをしっかりと確認する,守られていないのであれば糾弾する役割を担う者がいなければ,簡単にその手続を形がい化されてしまうことを知っているからです。
その意味で,弁護人には,権力に対するチェッキング機能も課せられているというべきでしょう。ちなみに,民間の職業で憲法に出てくるのは弁護人だけです。刑事弁護人というのは準公務員的な立場にあるともいえるでしょう。
まとめると,弁護人は,憲法が保障する適正手続という制度に組み込まれた存在であり,その職務を全うすることが目の前の依頼者(「犯罪を犯したと疑われる者(明らかに犯罪を犯した者を含む)」)に対する利益に適うだけでなく,その制度を全うに機能させることで社会的利益にも資する役割を担っているのです。
だから,弁護士は,犯罪者を弁護するわけです。それが凶悪犯とされる人物であっても。
そうはいっても,弁護士も普通の人ですから,明らかな凶悪犯や,全く反省の色のない被疑者被告人の刑事弁護をするときに,正義を愛し悪を憎む気持ちと職務的使命の間でやりきれない気持ちになることもありますよ。
だからというわけでもないですが,凶悪犯を弁護することそれ自体を批判されているのを見ると,たまに悲しくなることがあります。